このような「自作自演性」や「感傷」に対して「諧謔」というツールを持ち出したのが、はっぴいえんど(1970-73年 #10)のメンバーだった細野晴臣(1973年ソロ・デビュー #11)、大瀧詠一(1972年ソロ・デビュー #12)、ならびにその周辺のミュージシャンであった。「諧謔」とは即ち、「サブカルチャー自体をパロディの宛先にするという<自己適用>」を前提として「[ 意味 / 無意味 ]という対立を<非意味>という第三項によって無効化する試み」であったと宮台らは述べる。つまり「出来の良い自作自演」を実践した荒井由美の流行以降氾濫した、「自作自演である」ことのみを強調する「単なる自作自演」を実践する音楽に対する第三項を彼らは「諧謔の音楽」として示したのである。宮台らによればそれは「自作自演性」の「意味 / 無意味」という対立を無効化する一種の「梯子外し」として機能した。もっとも「諧謔の音楽」は「自作自演性」に対抗する意図は元々持たなかった。しかし、彼らの「諧謔の身振り」は、当時全盛だった「自作自演性」に対するパロディとして機能した。このとき、彼らが用いた手法の1つが、自作自演の方法に拘らない、豊富な音楽知識と卓越したテクニックを生かした様々な音楽に意匠を借りた<パクリ>であったのである。 (*58)
彼らの諧謔の身振りは、「自作自演」というコードが前提とする「オリジナリティ」という概念に対して特に痛烈な皮肉を与える。それは例えば「<自作>じゃなくても良い」(=個人の表出という作家性の否定)という何処か醒めた、時代に距離を置いた皮肉である。また数多くの洋楽からの<パクリ>を行い自ら演奏することにより、諧謔は同時に、当時根強く存在していた「欧米のロック=本物 / 日本のロック=劣位」という聴衆や作り手の意識 (*59) への皮肉にもなる。そこにある音楽は確かに欧米からの意匠によるものであるが、それを弾くのは日本人であり、そこで歌われる歌詞は日本語であること自体が当時「パロディ」となりえたのである。彼らは「豊富な音楽知識」という「圧倒的な過去の遺産」と折り合いをつける方法を「諧謔」というアイロニックな身振りによる「パロディ」に求めたのである。それは「感傷」や「共感」をコミュニケーションの軸としたニューミュージックに辟易した聴き手にとって全く新しい「価値転倒」だった。
またそれらの<パクリ>は引用元の存在を聴衆に知らしめることになった。ハッチオンは受け手が引用元のテクストに気付かないとき、パロディは機能しないと述べ、(*60) その場合の解決法を見出せずに論を終わらせているが、彼らは引用元、即ち「豊富な音楽知識」を積極的に明かすことでパロディの「二重テクスト性」を機能させた。彼らは引用元を「紹介」することで聴き手を積極的参加、「能動的参加」へと導き、このことが、「マニアックな<引用的探索>の楽しみ」を聴き手に与える結果になった(*61) 。また、そうすることで「諧謔」の担い手たちは、引用元を侵犯しながらも、そのオリジナルの存在を効果的に強化したのである。